【特集】伝統の「岩瀬きゅうり」を守れ③ 産地形成からみえてくるもの

■一大産地をつくったものきゅうり3収穫
 当地域の「岩瀬きゅうり」は出荷量1位の座を譲り渡したが、現在も国内有数のトップブランドであることに違いはない。この地位が形成された過程を振り返ってみると、農家の団結と農協の技術公開、情報共有が大きな役割を果たしていた。
 キュウリ栽培の歴史をみると、260余年前に始まった「きうり天王祭」の起源からも、江戸時代には当地域で大量に作られていたことがうかがえる。
 しかしそのまま一大産地が形成されたわけではない。一般にキュウリは気温が17~18度のときによく生育し、比較的短期間で成熟するため、日本では時期を選べばほとんどどの地域でも適切な生育温度が得られる。つまり他地域を圧倒する産地形成は自然な流れで生まれたわけでなかった。それは昭和の時代に活躍した人々の努力と試行錯誤の末に生まれた結晶であった。

■先駆者たちの軌跡
 始まりは昭和30年頃、当時は米麦と養蚕の農業経営が一般的だった。昭和28年の冷害や、農薬の普及で夏の農閑期が長くなったことなどが影響し、農家から新たな作物を模索する動きが強まっていた。
 先駆者の一人と言われる旧西袋村越久の佐藤作重さんは、当時桑園を経営していた。しかし周囲にできた梨園の薬剤散布で養蚕が被害を受けたため、代わりとなる野菜栽培を検討し、キュウリに着目した。先進地を視察し、埼玉県の坂本定吉さんから技術を学び、同郷の安藤一郎さん、橋本正治さんの3人で約30㌃栽培した。
 佐藤さんらはキュウリ栽培の普及やネット栽培など技術の改良、新品種の導入なども進め、先導的役割を果たした。
 また同時期に栽培を開始した旧岩瀬村矢沢の本田正一さんは、当時30歳にもならなかったが新しい農業経営に意欲を燃やし「矢沢果樹園芸研究会」を地元の仲間5、6人と組織した。旧白江村農協と相談して新しい適作物を探し、キュウリに行き着いたとされる。本田さんは農協青年部の役員でもあったため、品質向上などを目指し頻繁に埼玉県や栃木県、茨城県など先進産地を視察した。
 農協はこれらの動きを支援するため、農業改良普及所とタイアップし、須賀川・岩瀬に適した栽培法の研究を依頼した。その成果を細かく具体的に指導したことは、当時の農業にとって画期的だった。古い型の産地は個人の開発した栽培体系が近所や隣村に広がっていくが、その際に肝心なポイントを隠したり、コツやカン頼りな要素もあり、産地全体の品質にムラがあった。農協が主導的な立場を取ることで、当地域の栽培技術はほぼすべて公開され、結果としてキュウリの一大産地が形成された。

岩瀬きゅうり」のこれから
 佐藤さんらがキュウリ栽培を始めた約10年後、昭和40年に営農団地の部日本農業賞、農林大臣賞、全国農業協同組合連合会中央会長賞、日本放送協会長賞などを受けた。41年に国は野菜生産出荷安定法を制定し、同年8月に須賀川・岩瀬地方が「岩瀬地域」として野菜指定生産地に指定された。当地域では野菜生産出荷近代化事業計画が樹立され、夏秋キュウリ栽培に鉄骨支柱の導入、揚水施設や大型トラクター、集出荷場などを設置して産地体制が確立され、46年に「岩瀬きゅうり」は生産日本一の座に着いた。
 現在、担い手不足などの難局に立たされる「岩瀬きゅうり」だが、福島タネセンターの挑戦(特集第2回)など新たな動きも生まれている。生産量日本一への道に先導的立場とフォロワーが必要だったように、この状況を打破するため他業種を含めた協力体制の構築が求められているのかもしれない。